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(満たされてはいるのだ、ただ何かが足りないというだけで。満たされてはいるのだ、)
内心ぼそりと呟いて、誠一は手にしていた薄っぺらい紙のてっぺんを両手の親指と人差し指で摘むと、一気に引き裂いた。
ビッ、爽快な音が青空の下に響く。破った紙を2度、3度、さらに細かく引き千切ると、その断片は風に散らばった。数枚の紙切れが、誠一のよりかかる屋上の柵を超えはらはらと緩やかな軌跡を描いて舞い落ちていく。眼下のグラウンドでは、野球部がバラバラと基礎練を始めていた。季節は秋だった。風はやわらかな温度で吹いている。
(けれど、)
誠一は一瞬散っていた思考を再び呼び戻した。
(けれど、それは乾きではない。だって満たされてはいるのだから)
その時不意に背後に響いた、無遠慮な足音を誠一は故意に意識外に置いた。
ビッ、先刻よりも幾分乱暴な音をたてて紙を引き千切る。
「あっれ~、れいてんだったの?レア~!」
話かけんな。怨念のように込めた祈りは届くわけもない。凪いだ風を半分押し返すように響いた強引な声に、誠一は小さく舌打ちをした。
「100点だよ」
ひと呼吸置いた答えに、な~んだ、と酷く残念そうな声がすぐ側でした。
「これ」
言葉と共に差し出された紙切れは、誠一がたった今までちぎっていた紙の断片だった。赤字でゼロの字が殴り書きされている。
「100のゼロだ。…ていうかお前こそ、中間どうだったんだよ。また0点とったんじゃないだろうな」
「えっ、ま、まさか」
「わっざとらし~。つうか、0点てどうやったらとれんの?白紙で出したとかか?」
「それはない!ちゃんと記号は書いてるもん」
「馬鹿ヤロウ。胸はっていうことじゃねーよ。つうかちゃんと勉強しろ、お袋がまたうるさいぞ」
ため息まじりにそう諭すと、誠二は柄にもなく「うーん」と困ったように頭をかかえこんだ。
「だって兄ちゃん、俺はサッカー選手になるのに。なんで勉強する必要があるのかわかんないよ」
「…」
隣で柵にもたれかかり、うーんと気持ちよさそうに伸びをする弟に苦笑を返して、心の中で罵倒する。死ね、と、そう罵倒する。そうしてすぐに落とした視線を、コンクリートの床に貼り付けた。
「…兄ちゃん、顔が笑ってないよ」
(…、は、)
不意にポツリ、とまるでさっきまでとは全く違うトーンで呟かれた言葉に一瞬耳を疑った。思わず息をのんだその事を悟られないように、小さく深呼吸を繰り返す。何度も、何度も。そうしてやっとの事で平静を装った顔をあげた。
「…なんだって?」
「ほら」
まるで出題されたなぞなぞに自信満々で答える子供のように、得意満面で答える誠二の声に冷や汗が背をなぞった。
「兄ちゃんは作り笑いが得意なのに、さっきはなってなかった」
…そういえば、こいつが馬鹿なあまり失念していたけれど、昔から人の機微みたいなものには恐ろしく敏感な子供だったっけ。…ちっ、しくった、腹の底に苦々しく吐き捨てて、
「そうか?」
性懲りもなく惚けてみせた。
昔から、親から事あるごとに口うるさく説教されてきたのは自分ひとりで、両親の期待と愛情を一身に浴びてきたのは誠二だった。二番目の子供は放任されて育つという。けれど藤代家は世間の例外だった。
可愛げの欠片もない子供だったんだろうな。
それは容易に想像できた。それに比べて次男、は。図太そうに見えて実は繊細だなんて、愛情を注ぐ格好のターゲットに相違いない。それはむしろ自然なことだ。
「俺のこと、嫌いでしょう」
囁くように呟かれた言葉に、『来た』、と思った。
ただそれに動揺してみせるには、腹が決まりすぎていたという、それだけのこと。
「…それはないよ。ただ、死ね、と思っただけだ」
公認の作り笑いで答えると、「やっぱり」といって誠二がカラカラと笑った。それに一瞬面食らう。ばかじゃねえのか。
「嫌いと死ねはどっちが上?」
「さあ?死ね、じゃねえの。両方目の前から消えて欲しい、ってことに変わりはないわけだけど死ね、はつまり存在自体を否定するわけだから」
「そっか、上か。…そんならいい」
満足そうにそう言うと、誠二は「よっ」、という掛け声をかけて寄りかかっていた柵から身を起こした。そして思わず呆然とその体を目で追っていた誠一を振り返ると、
「じゃあ」
軽く手を振って、踵を返した。
「…兄ちゃん、痛い」
誠二の非難を含んだ声音に、自分の手が立ち去ろうとした弟の腕を咄嗟に掴んでいたことに気付いた。まるですがりつくようなその自分の醜態に、羞恥よりも嫌悪が先にたった。なんだこれは、自分の意志で自分の行動も制御できないなど、まるで俗物じゃないか、と。
「…悪りぃ」
言うが早いか素早く手を離そうとして、けれど瞬間感じた誠二の体温の高さに思わずぎょっとした。
「…お前、熱いぞ」
平気、か?続く言葉が小声になったのは、誰かの心配をするなんてガラにもない、と思い直したからだ。腕を掴まれるにまかせたまま、誠二がクスリと笑った。誠二のその笑い方に、何故だか腹の底がざわりとした。
「ああ、走ってきたから」
「は…?走ってきた?ここに?」
「うん。校庭歩いてたら、兄ちゃんが見えたから」
だから、走ってきた。
まるで当然、とでもいうようにケロリと言い放つ弟の姿に瞬間、―――恐怖した。
(…ヤバイ、)
その時唐突に、まるで潮がひくかのように誠一の中で言い表せない何か、がサーッと音を立ててどこかに流れていくのを感じた。
(やばい、やばい、やばい、やばい)
足下がすくわれるような、その感覚。
(違う、俺は冷静だ。そうだろう、俺は冷静だ)
「離して。もう行かなきゃ」
やんわりと振りほどかれた手が、名残惜しさを表現するかのように振りほどかれたそのままに停止する。
(…嘘だ。死ね、死ね、死ね、死んでしまえ。そして俺の目の前から永遠に消えてなくなればいい。)
―――兄ちゃん、俺は兄ちゃんの一番になれば、なんでもいいんだよ。だって俺、兄ちゃんがいなかったら、武蔵森じゃなくてもよかったし。
去り際に耳元で囁かれた言葉に、耳に触れた吐息に、よろめきそうになる体を辛うじて柵にもたれかけた。
(違う、俺は満たされているんだ)
そうして耳の奥に残った残響を、吹き飛ばすようにがむしゃらに頭を振った。
(そうだ、俺は満たされているんだ)
(了)
運命で片付けられるほど、果たしてそれは簡単な問題だったのだろうか。
「三上、」
微風に煽られゆらゆらと揺れる蝋燭の火の向こうで、渋沢が穏やかに口を開いた。一見何の変哲もない離れの座敷には不自然な静寂が満ち満ちている。秋も真っ盛りのこの時期に、虫の声ひとつすら届かないのは不穏な証拠だ。まして雑木林に囲まれているこの場所は言うに及ばず、である。
そしてそれ以上に、床の下、天井裏、それから四方を囲む壁の向こう、剥き出しの殺意がひしめきあっていることに、三上は先刻から気付いていた。それでも穏やかな素振りで酒を啜るのは、その状況はむしろ、予想の範疇でしかなかったからだ。己の生命を危険に晒す大博打を打つほどに、事態は切迫していた。
「元気だったか」
「…少し、痩せたんじゃねえのか」
渋沢のそれには答えず、三上は逆に畳み掛けた。苦笑いを浮かべた渋沢の表情には、確かにたったの半月前までは見られなかった苦労の陰が刻み込まれていた。そしておそらく三上自身にも。
そう、たった半月、だ。
されど半月。どっちつかずだった軍勢が敵に回るには、十分な時間だった。かつて私的な逢瀬を楽しんだこの場所が、政治的駆け引きの場に変わるには、十分すぎる時間。
「まあ、飲め」
一触即発の緊張感の上に向き合いながら、10年来の知己に再会したかのようにお互いを労りあうふりをするのは、まるで空虚でしかなかった。結果的にいえば、互いが望んでいるのは相手の死でしかなかったのだ。微笑を湛える渋沢にまた、微笑で答える三上はしかし、より危ない橋を渡っているのは己で、追い詰められているのも己であることを自覚する。例えば今少しでも不穏な動きを見せれば、戸外に満ちている猛者の殺意が残らず己に向かうだろう。張り巡らされた緊張の糸が、三上をがんじがらめにする。ごくり、と咽喉を震わせて、何時の間にか口内にたまった唾を飲み込んだ。もとより死を恐れているわけではなかった。ただ失敗に終わることを、恐れていたのだ。
一晩、たった一晩、渋沢をこの場に引き止めればいいのだ。
三上は居住まいを正した。それに乗じて懐に忍ばせた短刀の刃がひんやりと素肌にあたり、いやが上にもその存在を三上に知覚させた。その感触は、敵陣に単身乗り込んだ彼に正気を保たせるために残った、唯一の命綱だった。
「…お」
何気なく見下ろした視界の下。つい先日までは薄桃色に染まっていた堀の周りの桜の木々が、いつのまにやらまぶしいほどの新緑に変わっていたことに今初めて気づいて、三上は小さく声をあげた。
「…上様?」
傍に控えていた小姓の渋沢は、急に話の腰を折られて不愉快なのか、なじるような目で三上を見上げた。
「なあ渋沢、もう春も終わりだなあ」
それを楽しむかのように、あえてのんびりした調子で応答しながら、三上は渋沢の袖をひいた。抵抗を知らない体は、三上の導くままに腕の中に引き込まれる。
「上様、お仕事は」
「お仕事?」
おどけたようにおうむ返しにつぶやいてから、ククククッと喉の奥で笑った。
「お前のお仕事は、俺を喜ばせることだろ」
「…、藤代の軍勢が、兵糧をかき集めていると聞きます。もし今東から攻められでもしたら…、ただでさえ手薄な所ゆえ…」
「渋沢」
抑揚のない声に静止され、渋沢ははっとして口をつぐんだ。
見上げた三上の黒い髪の毛を、窓から吹き込んでくる春風がゆるりとなびかせている。
「俺が何もしないでいると思ってんのか」
「…では?」
息を詰めるように先を促す渋沢の瞳をチラリとのぞいてから、三上は密かに拳を握り締めた。
「明朝、東に軍勢を放つ」
「…ご出陣ですか」
「…いや、お前と俺はここに残る」
「…は?」
意外な言葉に、渋沢は思わず絶句する。
「お前は、どこへもやらない、っつってんだよ」
唸るような低い声と共に、窓の外を向いていた目が不意に渋沢を振り返ってギリと睨み付けた。その強い視線に渋沢は、たじろぐ己を叱咤しつつなんとか声を絞り出した。
「…なにを当たり前のことを」
おっしゃいます。不穏な予感が頭をかすめて、渋沢は嫌な汗がつうと背中を伝うのをかんじた。微笑で応じた自分の表情は、果たしてこわばってはいないだろうか。射るような視線をできる限り冷静に見返した。
「…酒」
そらされた視線と、ぶっきらぼうに投げられた言葉。微笑は崩さずに内心胸をなでおろして、渋沢は弾かれたように体を起こした。
妹と別れたその足で、そのまま寮の食堂に向かった。
開けっぴろげになったままの食堂の扉をくぐると、ちょうど夕食時のそこは文字通りの戦場と化していた。すれ違っていく後輩が挨拶をよこしてくるのを尻目に、三上はわずかに伸び上がって喧騒の向こうに目をこらした。
視線を投げた一番奥の壁側、まるで指定席のようになったその場所に探していた後ろ姿を見つけて、仏頂面の表情がわずかに崩れる。どうしてそうなったかは知らないが、学年が上がるにつれて指定席が手前から奥に移動していくのは、数ある寮生活の暗黙のルールのうちのひとつだった。そうして向き直った体でおぼんを手に取ると、配膳待ちの列に並んだ。
「よう」
向かい側の椅子をひくと、お茶を啜っていた渋沢の目が確かめるように三上を見上げ、けれどそれも一瞬ですぐに落とされた。
「荷物が届いたのか?」
「あ?あー、これ?」
三上は手にしていた紙袋を指差して、そう、といって頷いた。
「妹さん、しっかりしてるなあ」
「あいつが?そんなお戯れを」
茶化すようにおどけてみせると、湯のみを口から離した渋沢が苦笑をかえした。
「この兄にしてあの妹あり、だ」
何か意味深な渋沢の言葉に、三上はトンカツをおもむろに掴もうとしていた箸を止めた。
「何がいいたい」
「別に」
渋沢はつまらなそうに呟くと、皿に残っていたキャベツの残骸を箸でつまんだ。
三上は一瞬口を開きかけて、けれど突如として2人の間に停滞する気まずい空気に気付いて押し黙った。渋沢の箸がキャベツを摘んだり離したりするその光景を暫らく無言で眺めてから、三上は思い出したようにトンカツに箸をつけた。
「そういえば、」
まるで何事もなかったかのように静寂を割ったのは、別に他意があるわけではなかった。思考に浮かんだ事が、自然に舌をすべりおちたというそれだけのことだったのだ。
「妹がお前のことかっこいいっていってたぜ」
キャベツをいじくっていた渋沢の箸が、一瞬停止するのを視界の端で見ながら、三上はトンカツを口に運んだ。
「へえ…、それは。光栄だな」
「おいおい、いいぜ、別にお世辞なんざ言わなくて」
三上は苦笑して肩をすくめた。
「別に…」
「別に?」
口を閉ざすように言いよどんだ渋沢に、眉を寄せて問いただした。今日の渋沢はどこか変だ。
「いや、本当のことだ。憧れられるような人間じゃない」
「まったまた~」
笑いながら渋沢の肩を叩くと、渋沢が苦い顔をあげた。
「考えてもみろ」
「…何をだよ?」
「…昨晩のせいで腰が痛い」
ようやく口を開いた渋沢はけれど三上の問いには答えず、逆に責めるように睨み返した。
前後の脈略がない言葉はしかし、渋沢の言わんとしてることを簡潔に表していた。それを唐突に理解して、三上は箸を握っていた手の力をぬいた。カラン、というか細い音をたてて皿の上に箸が転がる。
「…ああ、悪かったよ。余裕なかったんだって」
そうして分の悪い言い訳のように口の中でブツブツと呟き返した。
「だろうな。ただ、こんな兄を持った妹はどう思うんだろうな、と思っただけだ」
渋沢はそう言うと、先刻までとは打って変わって、わが意を得たりとばかりに笑い返した。
(了)
ただ、先輩から、目をそらせないでいた。
崩れ落ちる武蔵森ナインを背景に、帽子のつばに右手をぐっと添えて、ただ微動だにせずマウンドに立ちすくむ、藤代先輩の、その姿から。
甲子園、2回戦まで進んだ武蔵森学園。
6対4、2点リードでむかえた9回裏相手校の攻撃は、それまで押さえ込まれていた強打打線が爆発して、ヒットの連続に極めつけはスリーランホームラン。
終わりはひどく、あっけなかった。
勝利の予感に沸き立っていた武蔵森の応援スタンドは、潮がひいたように静まりかえった。
「渋沢?」
不意に左隣の空気が動く気配がして、三上はマウンドに向けていた目を素早く戻した。さっきまで隣で声を枯らしていたはずの渋沢が、早くも持ち場を離れ応援スタンド横の階段を上りかけているのを認めて、三上は慌ててそれを追いかけて近づくと強引に腕を掴んだ。
「…どこいくんだよ」
「…三上」
一瞬驚いて振り向いた渋沢の顔が、三上を視界に捕えて微かに歪む。その反応に不快感を感じて、三上はもう一度押し殺した声で繰り返した。
「どこいくんだよ」
同時に咎めるように睨みつける。しかし渋沢はそれには答えず、やんわりと合った目線をはずすと、三上を飛び越えた向こう側に視線をおくった。その場違いな程にのんびりとした反応に苛立ちを覚え、三上はもう一度口を開きかけて、けれど寸前で渋沢の意図するところに気付いてぐっと唇を噛み締めた。背後のマウンドを振り返る。そうして渋沢の視線を辿ってみれば、案の定それは一直線にマウンドに立ちすくむ、1人の人間に注がれていて。
三上は、汗でぐしょぐしょになった拳をにぎりしめた。液体が、薄い皮膚を伝っていく感覚がする。
「お前が行って、何になるってんだよ」
三上は叫びすぎてすでに枯れかけた喉の奥から、搾り出すように声を発した。
…同じピッチにいない、俺たちがあの人の何をわかるというんだ。
あの人はもう、俺達と同じ場所にはいない。
同じ悔しさを、味わうことなどもうできないのだ。あの人がああやってあそこに立ち続ける限り、俺らは、もう。
真夏の太陽の容赦ない光線が、首の裏側をジリジリと照りつける。相手校の校歌が、異様に静まり返ったスタンドを素通りしていく。
渋沢の手が、彼の腕を掴んでいた三上の手をやんわりと解いた。それからうつむいた三上の肩を無言で一度叩くと、そのままスタンドの階段を振り向きもせずに駆け上がっていった。
三上はその場に立ち尽くし、絶望が心を満たしてそのまま崩れ落ちそうになるのを懸命に堪える。
あの、マウンドでひとり、誰に身体をあずけるでもなく、ただキャップを深くかぶって、微動だにせずにたたずんでいるあの人に、他人に踏み込まれることを何よりも嫌うあの人に、肩を貸せる人間といったらそれはあいつしかいないのだ。
わかってはいた事実に、けれど信じたくはなかった事実に、泣きそうになった。
自分があの人の眼中にないことくらい、わかって……、いた。
ただ、あまりにも憧れすぎたあの人が、自分と同じ舞台にはもういないのだと気付かされた、その一事がたまらないほど悔しかった。認められるほどの才能など持ち合わせていない、自分にとっての、ただひとつの誇れるべき共通点だったのだ。
サッカーをやっている、というその事のみが。
でも、あの人はもう、フィールドにはいない。