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花見をしよう、と言い出したは彼の方だった。
「示唆をあげよう。トップ下というポジションに、必要不可欠な能力はなんだと思う?」
まだツボミばっかじゃないっすか、という三上の不満の声に返ってきた誠一の返答は、ひどく的外れなものだった。
練習を終えたばかりの火照った体に、吹き付ける風が心地いい。4月も初旬に入り大分暖かくはなってはきたものの、日がかげるこの時刻になるとまだ肌寒さを感じる。けれどほんの2、3週間前までの肌を刺すような寒さに比べれば、数倍ましな寒さだった。そのことを考えると、確かに今年の冬は寒かったのだと思う。今頃になってようやくほころび始めた桜の蕾をこうやって見あげて、また改めて思った。
三上は所在なげに立ち尽くしたまま、木の幹によりかかり座り込んでいる誠一を見下ろした。そしてため息をつく。
「…視野の、広さ」
諦めて不貞腐れたように呟くと、誠一が呆れた、とでも言いたげな様子で肩をすくめた。三上は何故だか微かな落胆を覚え、ゆっくりと誠一から目を外した。そして、どこかひどくいたたまれない気分で足元の根を蹴りあげた。
「お前ってほんとうに期待を裏ぎらねえのな。そういうと思った」
からかうような口調に思わずむっとして顔を上げる。誠一はそっぽを向いたまま、けれど三上の視線を確かに意識しているようだった。まるで見せ付けるように、おもむろに地面に転がっていた桜のツボミを拾い上げ、小さく笑った。
「想像力だよ。そしてイメージに固執しない柔軟さだ」
彼はそう一息で言ってから、何の抑揚もみせずに手の中の蕾をぐちゃりと握りつぶした。
「……な、」
ぎくりとしたのは、その行為に介在する感情の希薄さだった。
ただ冷酷に握りつぶされた桜の蕾に、何故だかひどく息苦しさを覚えて小さく咳き込んだ。
次の瞬間ゆっくりと開いた彼の手のひらからはらはらと落ちていくその残骸と、それの描く軌跡に三上は思わず息をのんだ。そして蕾が完全に地面に落ちたとき、唐突に激しい嫌悪感が胸を突き上げてきて、その感覚に無自覚で眉をよせると、
「…想像力だよ」
振り返った誠一が静かに繰り返した。
そのソメイヨシノは、今でもひっそりとその場所で花をさかせている。けれど春になると思い返すのは、あの光景ばかりだ。満開の桜ではなくて、蕾がはちきれそうな程に膨らんだ、枝枝を伸ばすソメイヨシノ。
そして、俺はあの人を本当に失ったことを、思い出すのだ。
誰もいなくなった教室に、ヒーターのからからという甲高い音がいっそう大きく響いている。三上は窓辺に向き直ると、窓にもたれるようにして階下を覗き込んだ。寒い。うすっぺらいガラスは、じかに外気を伝えてくるようだった。まだ降り始めの粉雪は、地面につくとその瞬間に溶けて消えていく。ちょうど眼下に広がる小さな池に舞い落ちる雪を見下ろしながら、三上は無意識にその場所を目で追った。
あの鯉は、もう土に還ったのだろうか。
唐突に脳裏に蘇った鮮やかな赤と純白のコントラストが、窓を開けようとした三上の手を静かに凍りつかせた。耳に響く静寂が、シャツの下で震える心臓をゆっくりと絞っていくような感覚を覚えて、三上は息をつめた。
見渡す限り真っ白な雪景色、と、凍りついた池、割れた氷、その傍らで立ち尽くす彼の姿、手の中で苦しそうに身悶える錦鯉、それから雪の上に散らばる赤い染み、血、心臓の音。
頭が、われそうなほどの耳鳴りがした。
そうだ、あの日鯉は、死んだ。
藤代誠一という人は、どこか冷たいところのある人間だった。誰に対してもまるで見下したような態度で接し、そのくせ容易に反感を買わなかったのは、彼がそういう人間だったからだ。彼は、一言で言えば、カリスマの権化のような人間だった。唯一無二にして侵すべからず存在。その感情は憧れというよりも、むしろ信仰に近かった。
だから、彼に人並みの感情があるなんていうことを、想像したこともなかったのだ。池のほとりで、まるで自分の子供を眺めるように愛しそうに目を細めて鯉を見下ろす彼を見る、その時までは。思いもしなかった。
その池には、鯉は一匹しかいなかった。白地に赤い模様がついた、目を奪われるような美しい鯉だった。誠一の話によると、つい最近までは7匹ほどいたらしい。それらはどこにいったのか不思議に思わないでもなかったが、思っただけでやめた。そんなことを聞いても、どうしようもないことだった。第一、
「こいつが、一番かわいくてね」
楽しそうに笑う誠一の言葉で、他の7匹の運命はかすかに想像できた。
ひどい雪の日だった。
朝目覚めて早々妙な胸騒ぎがした。恐る恐るその場所にいってみれば、池のそばに立ち尽くす誠一がいて、その背中に声をかけようとして凍りついた。違和感は、すぐにイメージとなって広がった。
昨夜から降り続けた雪はモノというモノを真っ白に染め、まるで世界は白と黒のモノクロになってしまったようだった。けれどその中で、誠一の手の中に握られている鯉の赤色と、そこから滴る赤い鮮血が、強烈なコントラストをなしていた。思わず息を呑んで立ちすくんだその向こうで、誠一が緩々と頭をあげた。
「三上」
「…、はい」
どうしたんですか、と喉にでかかった言葉を押し込めて三上はかすれる声で返事をした。鯉が、誠一の手から逃れようと必死に体をばたつかせている。けれど誠一は微動だにしない。三上はその鯉の体から流れる赤い液体に、目が奪われて離せないでいる。
「殺すなら、餌をたくさんやって食いすぎて死なせてやりたかったんだ」
誠一の震える声を、初めて聞いた気がした。彼の声はいつだって強かったし、またそうでなくてはならなかった。三上は雪の上に散らばった真っ赤な血液が作り出す模様を凝視しながら、立ち尽くす。
「病気になって死ぬくらいだったら、俺が殺してあげようとそう、思っ、て、」
誠一は、常にないほどに饒舌だった。三上はひどい唇の乾きを覚えて何度も唇を舌で濡らした。
「…けど、血が綺麗だったから…、」
鯉は誠一の手の中で儚く震えた。慎重に同意を示すように頷き返すと、彼はひどく扇情的に顔を歪めた。次の瞬間、誠一の手からまるで命がぬけたようにはらりと鯉が地面にすべり落ち、そしてその同じ手が三上の肩を抱き寄せていた。生臭い匂いが、唐突に鼻腔を満たす。三上が状況を判断するよりも数コンマ先に、誠一の舌が呆けたように半開きになっていた三上の唇を割った。不意に口内に広がった鉄の味に、反射的に咳き込みそうになって、けれど強引に息をとめた。血が混ざった液体が、喉を流れていく。
まるで失ってしまった何かを拭い取るように、誠一の舌が口内を執拗に舐め尽す。三上は酸素が行き渡らず朦朧とし始めた頭の向こうで、雪上に落下した鯉が、静かに、ゆっくりと、息絶えていく音を聞いた。
その日、鯉は死んだ。
※性描写を含みますので、18歳以下の方の閲覧はご遠慮ください。
東京オフィス街の高層ビル35階、窓いっぱいに都心のパノラマが広がる部屋の黒い革張りの肘掛椅子は、藤代誠一が生まれたその瞬間からゆくゆくは彼のものとなることが決まっていた。早すぎる前社長の他界は、決定事項を少し早めただけのことにすぎなかった。例えば渋沢のものになると決まっていたものが、ようやくローンを払い終えた小さくてボロい一軒家であることと比べれば、それは雲泥の差というやつだった。
…せめてローンが終わっているだけマシか。渋沢は自嘲気味に口の端で小さく笑ってみせてから、すぐに引き締めた顔をあげた。そうして目の前に立ちはだかる、まるで分厚い壁のような、けれど内実は肩の力がぬけるほどに薄っぺらい扉をノックした。間髪いれず中から応答がして、渋沢はドアノブを握り締めるとゆっくり押し開いた。
「失礼します」
渋沢は音を立てないようにと細心の注意を払って扉を閉めてから、書類に目を落としたままの誠一に向き直って会釈した。
「社長、山田商事の田中様がおいでです」
「渋沢?ちょうどよかった。コーヒー淹れて」
相変わらず渋沢の方に目をくれようともせず、ペンを持った手を走らせながら誠一が無造作に言葉を投げてよこした。
「…、社長」
人の話を聞いていなかったのか、この人は。渋沢は少し面食らって、たしなめる調子で語気強く繰り返した。
そこでようやく誠一は顔をあげると、
「…ばかだねうちの秘書は。待たせるのも戦略のうち、ってね」
勝ち誇ったような笑みを浮かべた。だからコーヒー、とまるで駄々をこねる子供のような調子で続けられて、渋沢は返す言葉もなくコーヒーを淹れに立った。
初めてここにやってきた時、まっさきに覚えさせられたのはコーヒーの好みだった。インスタントコーヒーをスプーンで2杯。お湯を勢い良く注いで泡をたてる。インスタントコーヒーの嘘っぽい味がすきなのだと、渋沢には理解できない好みを彼は熱っぽく語った。理解できるわけがない。どんなに高級な豆だって、手に入れられる立場の彼なのだ。
誠一と対峙する時、常に心の裏側にあるのは畏怖と憎悪だった。それは決して持たない者の持つものに対する嫉妬ではなく、憎悪なのだ。もって生まれたものが才能であるだけにとどまらず、この世を動かすことの出来るほどの膨大な財産だったという、その事実に。それが自分ではなかったということの、その事実に。限りなく憎悪する。
けれど、いつか―――、
「お待たせしました」
「どうも」
カチャリ、と音を立てて湯気の立ち上るコーヒーカップを机の上に置くと、誠一は一瞬手をとめた。そして渋沢を見あげたその瞳の鋭さに、渋沢は思わず後ずさる。
「…まさか毒なんて入れてないだろうね」
「…は、何を突然」
「冗談だよ、笑えよ。んなこわばった表情してるからからかっただけ」
誠一はコーヒーを一口飲み込んでから、はははっ、と爽快な笑い声をたてた。
「……」
「有能な秘書だね。コーヒーがまずかった事がない」
「…ありがとうございます」
「ただ逆に有能すぎて怖いけど」
誠一はわざと興味なさそうに呟いて、佇む渋沢の所在のなさなど意にも止めずに立ち上がると、窓の向こうのパノラマに視線を向けた。これこそ小春日和、とでもいうのだろうか。晴れ渡った空が高層ビルの頭上を覆っていて、そのまぶしさに誠一は目を細めた。
「有能な秘書さん」
口ずさむように出た言葉には、幾分揶揄が篭っていた。
「……」
不振気に眉を潜める渋沢の表情が、背を向けていても手に取るように想像できて誠一は密かに笑いをもらした。
「いつになったら俺を殺してくれんの」
不意に窓から振り向いた誠一の視線が、まるで射抜くように渋沢を直視した。思わず見返してしまった瞳を、渋沢は今になって激しく後悔した。
捕らえられたら、最後―――、
「おいで」
抑揚なく発せられたその一言に、張り詰められていた緊張感がぷつりと切れる気配がした。それは、諦めにも似ていた。深い憎悪は、けれど究極の畏怖に勝るものではないことを知る。まるで何かの暗示にかかったように、渋沢はのろのろと二人を隔てていた机をこえた。そうして差し出された右手に触れるその前に、伸びてきた左手にネクタイを力任せに引っ張られた。咄嗟のことで何の構えもなしに引かれたネクタイは喉に深く食い込んで、その苦しさに大きく咳き込んだ。
「あ~あ、書類に唾飛ばしちゃったよコイツ」
どうしてくれんの、と胸倉をつかまれ冷たい目で見下ろされて、渋沢は湧き上がる感情に唇をかみ締めた。誠一はそれに愉快そうな声をたてて、
「そのさあ、飢えたような目が好きなんだ」
と目を細めた。渋沢がその言葉の意味を考える暇もなくシャツのボタンを飛ばされ、そしてそのまま身体を窓ガラスに押し付けられる。ひんやりとしたガラスの温度が素肌に伝わって、渋沢はぶるりと身体を震わせた。その拍子に、かろうじて引っかかっていた背広が腕を滑り落ちる。それを追うように見下ろした足元の向こうに数十メートル下の道路が見えて、渋沢は自分が存分に乱れた格好でガラス窓に押し付けられているというその事実をおぼろげながら自覚した。
「誰か見てるかもなあ、あの向かいのビルとか?」
まるでタイミング良く耳元で呟かれた言葉に、渋沢は舌打ちを返した。なんて最悪だ、質の悪いアダルトビデオだ。
「いいね、暴れてくれた方がやる気がでる」
「ふざけ、ないでください」
「ははは!丁寧だね。さすが有能な人間は違う」
感心するよ、と言いながら一方で誠一の片方の手は渋沢の胸に滑り込み、もう片方はベルトのバックルに手をかけた。
誠一の体に半分圧し掛かられるようにして窓ガラスに押し付けられた胸が息苦しくて、渋沢は大きく息をついた。なんとか苦痛から抜け出そうと身体をよじると、むき出しの乳首がガラスに擦れ、て、
「…っ!」
体の奥の方から駆け上がってきたざわりとした感覚に息を呑んだ。
渋沢はぶるぶると首を振った。そうして振り切ろうとした感覚は、けれど強引に渋沢の胸とガラスの間に割って入った冷たい手によって一笑に付された。乱雑に撫で付けられたその部分から広がる痺れに、渋沢は無意識のうちにガラスについていた手のひらをぎゅっと握り締める。屈辱だった。
震える体は、けれど誠一の手と窓ガラスに阻まれて逃げ場を失う。思わず口をついてでそうになった声を限界までぐっとかみ殺して、目の前に広がる無機質な高層ビル群を視界におさめた。
心のずっと内側で、どろどろになって絡みつく憎しみと欲望のループに眩暈がする。
「…ぁっ」
「まったく有能な秘書だよ」
「…うぁ、…っ、社長ッ…!」
パサリという布地が床に落ちる乾いた音と、理性を捨てる瞬間とはほぼ同時だった。
インスタントコーヒーの焦げ臭いにおいが唐突に鼻をついて、けれどそれに眉を潜める時間は与えられなかった。
その時唐突に、何の前触れもなく切られたカードは、三上を追い詰めるに十分の衝撃だった。
ただ、失念していたのだ。
思い返せば、彼は目的のためなら、手段など省みらずに何だってやるような人間だった。例えばそれが目的の達成に必要なことだとしたら、簡単に誰かを傷つけてしまうような、そんな。
唐突に三上を襲った後悔は、けれど同時に湧き上がった恐怖に取って代わって体を震わせた。
乗じて吹き出した汗に、受話器が手のひらから滑り落ちそうになるのを懸命に止まらせながら三上は声を絞り出した。
「…、何、言ってんすか」
一瞬つまってしまった言葉に、電話の向こうから、まるで耐え切れないとでもいうような笑い声が漏れる。
『ああ、いいよ、そういう往生際の悪さが好きだね。―――追い詰め甲斐がある』
「ふざけ…、」
『じゃあ、そんな君にもう1回だけチャンスをあげよう。うちの可愛い弟を寝取ったんだろう?』
冷や汗が背筋をなぞるのを感じながら、三上はごくり、と唾をのみこんだ。
「……、ちが、」
『あ~あ、お前も馬鹿だねせっかくの猶予を』
同情を含んだ彼の声音は、けれど明らかに愉快そうな調子と合い間って耳元で震えた。
三上は思わずその声に陥落してしまいそうになる己を懸命に叱咤した。これは、はったりに決まっている。念には念を重ねた。あの日の出来事を、誠一が知るすべなどあろうはずがない。
『お前今ベッドにいる?いるよな?』
「…はい、それが…?」
『壁にくっついてる方のベッドサイドを手で探ってみ。頭の方な』
「は?何言ってるんですか」
『いいから。探ってみろって』
釈然としないままに、それでも渋々ベッドに横たえていた体をゴロリと半回転させると、壁とベッドの間にできたわずかな隙間に手を差し込んだ。そしてそのままベッドの側面をなぞるようになで上げて、そして、ある一点で、手が止まった。
まるでそれにタイミングを合わせるかのように、誠一の低い笑い声が鼓膜を震わせた。
『見つかった?』
「……」
指先で触れたその物体の覚えのある形状に、三上は内側で、何かがゆっくりと崩れ去っていく音を聞いた気がした。
…まさか、
「盗聴器…?」
『ビンゴ!…あ、別に取らなくてもいいと思うぜ、それもう電池ないから使い物になんないし』
瞬間、頭から足の先までさっと血の気が引いていくのを感じた。指先の小さな震えが、全身に伝播する。
「まさか今まで…、」
『誠二に抱かれて鳴くお前の声、良かったぜ。あっ、そうか聞かせてやろうか』
「や、めろっ…!」
『おいおい、君に拒否権があると思ってるの。言いつけを破った上にそれを隠そうとするなんてさあ、本当できがわるいよね。…なあ三上』
ドスを聞かせるように呟かれたその言葉に、全身が戦慄く。
「…あ、すみませ…」
条件反射のように呟いてしまった謝罪の言葉は、けれど三上をただ追い詰めるだけでしかなかった。
『ばっかだね~、許すわけないじゃん』
くくくっ、と発せられた笑い声が、悪夢のように耳の内奥に響いた。
(満たされてはいるのだ、ただ何かが足りないというだけで。満たされてはいるのだ、)
内心ぼそりと呟いて、誠一は手にしていた薄っぺらい紙のてっぺんを両手の親指と人差し指で摘むと、一気に引き裂いた。
ビッ、爽快な音が青空の下に響く。破った紙を2度、3度、さらに細かく引き千切ると、その断片は風に散らばった。数枚の紙切れが、誠一のよりかかる屋上の柵を超えはらはらと緩やかな軌跡を描いて舞い落ちていく。眼下のグラウンドでは、野球部がバラバラと基礎練を始めていた。季節は秋だった。風はやわらかな温度で吹いている。
(けれど、)
誠一は一瞬散っていた思考を再び呼び戻した。
(けれど、それは乾きではない。だって満たされてはいるのだから)
その時不意に背後に響いた、無遠慮な足音を誠一は故意に意識外に置いた。
ビッ、先刻よりも幾分乱暴な音をたてて紙を引き千切る。
「あっれ~、れいてんだったの?レア~!」
話かけんな。怨念のように込めた祈りは届くわけもない。凪いだ風を半分押し返すように響いた強引な声に、誠一は小さく舌打ちをした。
「100点だよ」
ひと呼吸置いた答えに、な~んだ、と酷く残念そうな声がすぐ側でした。
「これ」
言葉と共に差し出された紙切れは、誠一がたった今までちぎっていた紙の断片だった。赤字でゼロの字が殴り書きされている。
「100のゼロだ。…ていうかお前こそ、中間どうだったんだよ。また0点とったんじゃないだろうな」
「えっ、ま、まさか」
「わっざとらし~。つうか、0点てどうやったらとれんの?白紙で出したとかか?」
「それはない!ちゃんと記号は書いてるもん」
「馬鹿ヤロウ。胸はっていうことじゃねーよ。つうかちゃんと勉強しろ、お袋がまたうるさいぞ」
ため息まじりにそう諭すと、誠二は柄にもなく「うーん」と困ったように頭をかかえこんだ。
「だって兄ちゃん、俺はサッカー選手になるのに。なんで勉強する必要があるのかわかんないよ」
「…」
隣で柵にもたれかかり、うーんと気持ちよさそうに伸びをする弟に苦笑を返して、心の中で罵倒する。死ね、と、そう罵倒する。そうしてすぐに落とした視線を、コンクリートの床に貼り付けた。
「…兄ちゃん、顔が笑ってないよ」
(…、は、)
不意にポツリ、とまるでさっきまでとは全く違うトーンで呟かれた言葉に一瞬耳を疑った。思わず息をのんだその事を悟られないように、小さく深呼吸を繰り返す。何度も、何度も。そうしてやっとの事で平静を装った顔をあげた。
「…なんだって?」
「ほら」
まるで出題されたなぞなぞに自信満々で答える子供のように、得意満面で答える誠二の声に冷や汗が背をなぞった。
「兄ちゃんは作り笑いが得意なのに、さっきはなってなかった」
…そういえば、こいつが馬鹿なあまり失念していたけれど、昔から人の機微みたいなものには恐ろしく敏感な子供だったっけ。…ちっ、しくった、腹の底に苦々しく吐き捨てて、
「そうか?」
性懲りもなく惚けてみせた。
昔から、親から事あるごとに口うるさく説教されてきたのは自分ひとりで、両親の期待と愛情を一身に浴びてきたのは誠二だった。二番目の子供は放任されて育つという。けれど藤代家は世間の例外だった。
可愛げの欠片もない子供だったんだろうな。
それは容易に想像できた。それに比べて次男、は。図太そうに見えて実は繊細だなんて、愛情を注ぐ格好のターゲットに相違いない。それはむしろ自然なことだ。
「俺のこと、嫌いでしょう」
囁くように呟かれた言葉に、『来た』、と思った。
ただそれに動揺してみせるには、腹が決まりすぎていたという、それだけのこと。
「…それはないよ。ただ、死ね、と思っただけだ」
公認の作り笑いで答えると、「やっぱり」といって誠二がカラカラと笑った。それに一瞬面食らう。ばかじゃねえのか。
「嫌いと死ねはどっちが上?」
「さあ?死ね、じゃねえの。両方目の前から消えて欲しい、ってことに変わりはないわけだけど死ね、はつまり存在自体を否定するわけだから」
「そっか、上か。…そんならいい」
満足そうにそう言うと、誠二は「よっ」、という掛け声をかけて寄りかかっていた柵から身を起こした。そして思わず呆然とその体を目で追っていた誠一を振り返ると、
「じゃあ」
軽く手を振って、踵を返した。
「…兄ちゃん、痛い」
誠二の非難を含んだ声音に、自分の手が立ち去ろうとした弟の腕を咄嗟に掴んでいたことに気付いた。まるですがりつくようなその自分の醜態に、羞恥よりも嫌悪が先にたった。なんだこれは、自分の意志で自分の行動も制御できないなど、まるで俗物じゃないか、と。
「…悪りぃ」
言うが早いか素早く手を離そうとして、けれど瞬間感じた誠二の体温の高さに思わずぎょっとした。
「…お前、熱いぞ」
平気、か?続く言葉が小声になったのは、誰かの心配をするなんてガラにもない、と思い直したからだ。腕を掴まれるにまかせたまま、誠二がクスリと笑った。誠二のその笑い方に、何故だか腹の底がざわりとした。
「ああ、走ってきたから」
「は…?走ってきた?ここに?」
「うん。校庭歩いてたら、兄ちゃんが見えたから」
だから、走ってきた。
まるで当然、とでもいうようにケロリと言い放つ弟の姿に瞬間、―――恐怖した。
(…ヤバイ、)
その時唐突に、まるで潮がひくかのように誠一の中で言い表せない何か、がサーッと音を立ててどこかに流れていくのを感じた。
(やばい、やばい、やばい、やばい)
足下がすくわれるような、その感覚。
(違う、俺は冷静だ。そうだろう、俺は冷静だ)
「離して。もう行かなきゃ」
やんわりと振りほどかれた手が、名残惜しさを表現するかのように振りほどかれたそのままに停止する。
(…嘘だ。死ね、死ね、死ね、死んでしまえ。そして俺の目の前から永遠に消えてなくなればいい。)
―――兄ちゃん、俺は兄ちゃんの一番になれば、なんでもいいんだよ。だって俺、兄ちゃんがいなかったら、武蔵森じゃなくてもよかったし。
去り際に耳元で囁かれた言葉に、耳に触れた吐息に、よろめきそうになる体を辛うじて柵にもたれかけた。
(違う、俺は満たされているんだ)
そうして耳の奥に残った残響を、吹き飛ばすようにがむしゃらに頭を振った。
(そうだ、俺は満たされているんだ)
(了)